「明養軒小史」より 幾多の激動の時代を超えて築き上げてきた歴史… 明治十八年、明治維新の激動もおさまり、世を上げて文明開化の時代。 明養軒創業者 橋本源吉(初代)が、太田市尾島町の明王院(現在は国指定史跡 新田荘遺跡となっている寺院)の「明」明王院のある安養寺地区から「養」をいただき、町内で初めての割烹料理店「明養軒」として開店いたしました。 明養軒は中島知久平(中島飛行機、のちの富士重工業の創始者)からも愛され、北原白秋(詩人、童謡作家)も来店した事があり、その他各界の著名人からもご利用頂いております。 |
【↑明養軒で所有する一番古い大広間の写真上と建物入口付近下】 |
現在の明養軒の建物は、先代から受け継いできた木造建築の店舗を改修工事されて新しくなっております。当時のおもむきを可能な限り残し、各所に昔を偲ばせる姿が残っております。二階の宴会場は組子の欄間で、特に当時の面影を感じる事ができます。
創業からの歴史を語る展示物も多くありますので、例えば尾島町にある中島知久平邸(太田市指定重要文化財)など見学の後に当店でランチを兼ねて見学などをされていくお客様もおります。展示物に興味のある方はスタッフにお声をかけて頂ければ幸いです。 【↑現在の2F大広間、座敷セッティングの場合】昔のままの雰囲気を味わえる大広間。現在も150人くらいまでの宴会が可能です。間仕切りも出来ますので、少人数の宴会・法事のご利用もできます。 【↑現在の2F大広間、椅子のセッティング】現在はテーブルと椅子の席でのご利用が多いため、こちらを基本セッティングとさせて頂いております。 少人数の宴会・法事のご利用もできます。 |
牛肉・蒲焼など、当時はまだ斬新な「西洋風料理」は話題を呼び、さらには料亭の華、芸者衆の洗練された舞も宴会を多いに盛り上げ、他料亭とともに地元尾島町を活気づけたそうです。
※当時の雰囲気をイメージしたランチなど(各種御膳)もご用意してお待ちしております。お気軽におでかけ下さい。 |
【尾島小唄と明養軒】 |
↑御膳かけ紙にもプリントされております。 |
【↑中島知久平】 |
【明養軒と親交が深かった中島知久平について】 中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年-1949年は日本の実業家・政治家で中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者として知られており、政治家に転じてからは大臣や政友会総裁を務めた。 中島飛行機について。 大正6年、尾島町で誕生した中島飛行機は、押切飛行場にて中島四型機の試験飛行に成功するなど、着実に業績を伸ばし、町の産業を発展させました。 戦後は富士重工業として再出発をし、今でも太田市周辺の産業発展に貢献しています。 押切飛行場の一部跡地では、今でも「RCページェント」という全国的にも有名なラジコン飛行機の祭典が行われています。 【↑中島飛行機株式会社本館】 |
中島飛行機制作所『つるぎ』ご紹介 中島 特殊攻撃機「剣」(藤花) 陸軍 昭和20年 片道飛行の特殊攻撃機『剣』甲 |
太平洋戦争末期に、日本の敗戦が濃厚となりながらも徹底抗戦を叫ぶ軍当局は少ない資源と資材で製作できる特攻専用機キ115の開発を中島飛行機に指示した。 指示を受けた中島飛行機はわずか1ヶ月という驚異的なスピードで試作機を完成させ、終戦までに100機余りを量産したが、実際に特攻機として使用されることはなかった。 発動機は製造の容易なハ115を採用、期待も貴重なジュラルミンなどは使用せず、木材やブリキ板などが使用され生産促進が図られていた。また主脚も当初は離陸後に切り離されるようになっていたが、訓練で使用するには危険なため簡易型の固定脚が取付けられた。武装は機体内に半埋め込み式で取付けられる爆弾のみで、軽量化・簡易化のため機銃は装備していなかった。 なお海軍用として特殊攻撃機「藤花」の名称もあったが陸軍では正式採用されていない。 |
↑明養軒所蔵のつるぎエンジン設計図面。 |
【機体詳細データ】特殊攻撃機「剣」甲(キ115) |
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